うなぎの故郷
中国の言い伝えでは、蛤には卵がなくうなぎには雌がない。そこで「雀が海中に投じて蛤となり、山芋が変じてうなぎになる」とされてきた。中国・明代(16世紀)に季時珍という学者が記した「本草網目」という本によれば「うなぎは雄魚があるばかりで、一定の年令になると川を下り海に止まる」と雌うなぎの存在は否定されている。西洋でも同じようにうなぎの不思議は人知を超えた存在と考えられて来たようだ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「うなぎは泥中から湧く」と語り多くの研究者を悩ませてきた。そして現在でもなお、その生態や生活史についても謎の部分が多く残されている。特に日本人が古くから親しんできたニホンウナギ。だが、何処が生まれ故郷かとなると古代から21世紀に至るまで未解明のままだった。これだけ日本の食卓に上がり、食材として人気があるのに何だか不思議な気がしますね。
しかし2005年東京大学海洋研究所(塚本勝巳教授)の長期的調査研究により、ついにその産卵場所が特定されたのである。そこは日本から離れること3,000km、北緯14度、東経142度40分〜143度、マリアナ海溝に連立する海山の1つスルガ海山だった。(スルガ海山:静岡県の調査船が発見した海山で、その船名を取って名付けられました)まさに太平洋でニホンウナギの産卵場所調査が始まってから約70年の時を経ているのです。ここでニホンウナギはその年の5月、6月の新月の時に水深300〜500mで産卵し、生まれた仔魚プレレプトケファルス、レプトケファルスと形を変え、北赤道海流に漂い、黒潮に乗り換えて流れ、遥か日本や東アジアの各地海岸に達し、やがて変態してシラスウナギになり冬から早春にかけて河川を遡上する。三島の河川に生息していたうなぎも遥か遠い海域から、黒潮に乗り、駿河湾に入ったレプトケファルスはやがて変態してシラスウナギになり狩野川を遡上してその支流である大場川に入り、そして三島の各河川へたどり着いてのです。
うなぎのぼり
シラスは夜、満ち潮に乗って河をのぼり、いったん、のぼり始めると、いかなる障害をも乗り越えて、ひたすら前進を続けます。中国の揚子江の河口に入ったうなぎは2,000kmもさかのぼって上流の四川省まで達するといいますし、アメリカのミシシッピ川をさかのぼったうなぎは、どんどん北上し、一体どんなふうにしてのぼっていくのか、あのナイアガラの大瀑布をのぼりつめ、エリー湖にいたるといいますから、まさに「うなぎのぼり」の形容は、他を寄せ付けない勢いを感じさせるに適した表現であることがわかります。
うなぎは湖沼や潟などに達すると、夜間、小魚、エビ、カエル、昆虫などの餌を求めて活動するのですが、あれほど強靭な前進力をみせたにもかかわらず、縄張りの範囲は意外と狭く、せいぜい半径100m程度です。そして水温が15℃を下回ると活動が鈍くなり、食欲も減退していき、10℃を下回ると餌をとらなくなり、活動を停止し、沼の中に潜ってしまいます。
うなぎ様
うなぎは成熟するまでに3年から8年もの長い歳月を経ます。そして成熟年令に達すると、9月から10月下旬頃、川から海に下り、遠い産卵場へ向かうのです。
海に下り始めたうなぎは絶食に入り、好物の餌を付けても決して釣り針にはかかりません。そして産卵場を目指して1日8〜30カイリ、環境がよければ1日60カイリも進むそうです。1カイリは約1.85kmだから、1日60カイリは100km以上進む計算になります。
産卵場に到着し、生殖活動を終えたうなぎは雄も雌も、その時点で寿命が終わると考えられていますが、飼育によって生殖活動が抑えられたうなぎは50年以上も生き続けるといいます。さらに、うなぎは絶食のままで1年半以上も生きるそうです。「沼のヌシ」の異名をとり、伝説や民話に登場する理由も、この辺の生命力にありそうです。
また、うなぎの血清は有毒で、うなぎの血が人の目に入ると結膜炎を起こし、傷口につけば皮膚炎を起こします。こんな威力も加わって、うなぎを神社に奉ったり、禁忌として食べない習慣を作った村が多くあったのも納得がいきそうです。うなぎは視覚よりも嗅覚が優れて発達しています。うなぎの嗅覚器官の大きさは脳髄全体の大きさを上回っています。うなぎのように目の小さい魚は嗅覚が発達しているので、仕掛ける時は、においのある餌を用いるといいそうです。
三島はうなぎのパラダイス
昔、三島の川や三嶋大社に神池に多くのうなぎが生息しておりました。その事が幾つかの文献から伺い知る事ができます。
日本永代蔵の著者井原西鶴は「月よ花よ起請を入る箱根山春の初夢みしまの約束時ならぬ汗水ながす針鰻(ハリウナギ)」と詠んでいます。
以上のことからも三島の川や三嶋大社の神池に人に馴れた無数のうなぎが生息していたことを伺い知ることが出来ます。
三嶋大社とうなぎ
いつの頃からでしょうか神池に棲む沢山のうなぎは、三嶋大明神(三嶋大社)の使者と崇められ社地内での捕獲は固く禁じられました。それがいつしか三島のうなぎを捕って食べると大明神の神罰が当たると言い伝えられ、三島の人々はうなぎを食べなくなりました。
三嶋神は東海随一の神格と考えられ、古くより人々の信仰を集めております。特に中世、源頼朝が三嶋大社にて源氏再興を祈願した史実は有名。現在も頼朝公にあやかりたいと合格祈願、商売繁盛など祈願する参拝客でにぎわっています。
水神様とうなぎ
昔の人々は、川や水源は神が宿る場所として考え感謝や畏怖を信仰という形で伝えて来ました。それが井戸の神様、川の神様、水の神様である水神信仰なのです。三島の水源地には水神の祠が祭られ、日々のお供え物や祭りごとをして大切にされて来ました。現在でも三島市内には八ヶ所の水神様が祀られております。
ところで水神は、また竜や大蛇あるいはうなぎなどの魚の姿で祀られることも少なくありません。前述のように三島の川には無数のうなぎが生息していたとなれば、昔の人々はこのうなぎを水神の化身として崇め、捕って食することにより川や水の災いを招くことを恐れたのです。
ともあれ、三嶋大明神の使者、水神様の化身とされたうなぎはこの地が楽園であった事だけは間違いないようです。
三島のうなぎ伝説
三島にはうなぎにまつわるこんな伝説も残っております。三嶋大社から南へ3.5km行ったところに、三嶋大社の御門の守護神である右内、左内神社がございます。この右内神社は別名「うなぎの宮」、または「うなぎの森神社」と呼ばれ、地元氏子は明治の初め頃までうなぎを食べない習慣がありました。その訳はこの神社社地内にかつては約二反歩(約20アール)ほどの広さの「宇米津の池」(里人はこの池をうなぎの池と呼んでいた)という池があり、冬になるとこの池に上流からうなぎが集まり冬越えをすると言われていたからです。
氏子達はこのうなぎを三嶋大明神の使者として崇め、たいそう大切にして誰一人捕らえる者はなかったそうです。もし捕らえるものがあれば、たちまち神罰を受けて毛のない首の長いつるつるの児が生まれると言い伝えられて来たからです。また「台徳院殿御実記付録五」にこんな記録がございます。元和5年(1619年)5月11日徳川第二将軍秀忠が上洛の途中三島にて宿泊の折、その夜近侍達がよもやま話を語り出しておりました。その話とは先日ここを通った御中門(おちゅうげん)の一人が神池のうなぎを捕って食べてしまったと言うのです。
その者いわく神池も将軍の治下に属するもの故、いま我は上様の御供なれば何の祟りがあろうものか。と言って去って行きました。この話を聞いた秀忠は霊験あらたかな神の威徳を軽んずる事は極めて大きな事に関係してくると激怒し、重臣本多正純に命じました。その者を見つけ出し、明日三島の町端に理由を明記し磔(はりつけ)にして曝しなさいと。
明治維新とうなぎ
一説によると明治維新の時に薩摩、長州の兵隊達が三島に宿泊の折、言い伝えを知らない兵士が争ってうなぎを捕まえて食べてしまったそうです。それを見ていた三島の人々は何の神罰も当たらないのを知り、それ以来人々は食べるようになったと言うのです。しかし三嶋大社においては社地内でうなぎを食べるようになったのは戦後からだそうです。
三島のうなぎは何故美味しい
今では多くの皆様方に三島のうなぎを召し上がっていただいております。ところでこの三島のうなぎ料理には欠かせない大きな秘密があるのをご存知ですか?それは水、すなわち富士山の伏流水なのです。この伏流水にうなぎを曝すことにより、うなぎが持っている生臭さや、泥臭さを消し、栄養素である蛋白質を減少させることなく、余分な脂肪分だけを燃焼させることが出来るのです。
三島のうなぎ屋は調理の前に必ずうなぎをこの水に曝すのです。これも富士山からの吹く流水パワーなのです。
日本随一の三島の良水!清らかな水が育むうなぎ
富士の湧水あふれる三島は水の都。昔から「化粧水」といわれるほどの名水である三島の水は分子が小さく酸素を多く含んだ活水。この水を地下40mからくみあげ、立場(たてば)で2~3うなぎを水に打たせます。余分な脂がとれその身はキュとひきしまり臭みのない味となります。また、この水はごはんを炊くにもお吸い物にも使われるため、一品一品がこだわりの味となります。